挑戦的なムードではなく、従順なムードで質問する。
タド ヴィディㇶ プラニパーテナ /パリプラシェネナ セヴァヤー
ウパデクシャンティ テ ジャーナㇺ/ジャーニナス タットヴァ-ダルシナㇵ
「精神指導者に近づいて真理を学び、従順に質問し、師に仕えなさい。自己を悟った魂は真理に精通しているので、弟子に知識を授けることができるのです。」( B.G. 4.34)
「パリプラシェネナ」とは従順な質問によって、という意味です。
原則11と12に述べたように、私達は疑問、困惑、誤解を提起しなければなりません。しかし精神的生活に向上したければ、挑戦的なムードで質問することは出来ません。
「いいえ、従順に質問すること。挑戦的であってはいけません。質問して挑戦することは決して有益ではありません。」 (朝の散歩、1974年3月23日、ボンベイにて)
「質問することなくしては、進歩することは出来ません。ですから盲目的な信念は必要ありません。又、挑戦的なムードで質問してはいけません。そのようなことはあってはなりません。質疑応答は、理解するために正しいものであるべきです。そしてそれは奉仕に伴われているべきです。」 (B.G.4.39―5.3講義、1966年8月24日、ニュヨークにて)
「あなたはこの言葉を少し従順に受け入れなければなりません。ナマンタ エヴァ。私はとても知識がある者だと、自分のことを考えないでください。私達の知識はとても限られているので、自分が学識がある者だと考えて、偽のエゴのために自惚れるべきではありません。いいえ。もう少し穏やかで従順になって下さい。そしてクリシュナからこれらのメッセージを聞いて下さい。スタネ スティタㇵ スルティ-ガタㇺ タヌ-ヴァン-マノビㇶ。タヌ。タヌとはあなたの体、ヴァクとはあなたの言葉、マナとは心という意味です。ただ単にあなたの心、体、言葉を調整して、至高主によって話された『シュリマド-バガヴァドギーター』と聞いて下さい。そしてあなたの意見、理由等何でもあなたが持っているものを言って下さい。盲目的に受け入れないでください。そのことについて良く考えて下さい。そうすれば、その結果を見ることが出来るでしょう。」 (B.G9.11-14講義、1966年11月27日、ニューヨークにて)
上記の引用から、従順にという意味について何か洞察できます。 それは挑戦的ではないということ、自分の学識を自慢に思っていないということです。 それは、シュリーラ-プラブパーダの経典が間違っていると証明しようとして質問しているのではないということです。 私達は穏やかで謙虚であるべきです。そして、教えられた真実をより良く理解出来るようになるためだけに質問するべきです。 基本的にシュリーラ-プラブパーダが私達に知識を与えることが出来る人だと受け入れないのなら、シュリーラ-プラブパーダの本を語り合う意味がありません。
「そして、どのようにして精神指導者から学ぶのでしょう。 ‘彼に従順に質問する。’ 自分が挑戦できるような相手を精神指導者として近ずくことはないでしょう。 それではあなたの精神指導者の選択は間違っています。 展示用の瓶であるかのように精神指導者を保持するのなら、あなたの選択は正しくありません。 それは間違っています。 精神指導者... ‘はい’と従順に、あなたが頭を下げてお辞儀できるような人のうちから精神指導者を選ばなければなりません。 ですからあなたは見なければいけません。」 (B.G.4.34-39講義、1969年1月12日、ロサンゼルスにて)
『カミング-バック』の中で、従順に質問するとはどういうことかについて、シュリーラ-プラブパーダはもう一つのとても興味深いユニークな見解を挙げています。:
「ヤマドゥ―タ達は言いました。 ‘この事件に関して事実をあなたから学びたいと願います。もしもあなたが、私たちが理解できると思うなら、どうか私達を啓発して下さい。’ これが目上の人に対して従順に質問する方法です。 挑戦的ではありません。 マラージャ-パリキシットやアルジュナや、この精神的啓発を遂行している人は誰でも、謙虚で従順で、奉仕のムードを持って質問していることをいつも見ます。 目上の人に質問したからと言って、その人は私達の質問に答える義務があるわけではありません。 もしも私達が答えを理解しきれない時は、質問に答えるのを拒むこともあります。 私達は請求することは出来ません。 質問と従順と奉仕は、知識への道です。 マハラージャ-パリキシットがシューカデーヴァ-ゴースワーミに質問する時はいつでも、 ‘もしもあなたが、私が理解できると思うなら、どうかこの質問に答えて下さい’と、とても従順に質問していました。」 (『カミング-バック』19章、全ての疑問を解く)
上記の引用から私が理解したことは、従順にという意味は、私達の質問はいつも答えてもらえるわけではないことを受け入れなければならないということです。 それはシュリーラ-プラブパーダの欠点ではありません。 私達にはその答えを理解する資格がないというだけのことです。
私達が自宅で友人達と語り合う時はいつも、自分達の質問を提起します。 答えを探す最善を尽くし、その質問に答えるために知性と論理を使います。 時々私達は見解を見出し、満足する答えを一つ以上見つけることが出来ます。又、全く何も答えを見受けられないこともあります。 その様な場合には、その質問をノートに書き留めておいて、次に進みます。 私達の知性をガイドしてくれるのはハートの中にいる主であること、主から知性と忘却が来ることを受け入れています。 時には主は私達に知識を与えて下さいます。時には与えて下さいません。 従順さとは、それでも良いということです。