Srila Prabhupada

あなたが理解したことを適応する方法を、理解するのに助けになる質問をする。

シュリーラ-プラブパーダが意図した意味を明確にするのを助ける質問をして、疑問や誤解を明かすとともに、理解したことをどうやって自分自身に適用するのかについても聞く必要があります。

「聞くことによって理解するように努め、そのプロセスを毎日の日常生活に適用するように努めなければなりません。従順になり、正しい源から聞く、そしてその教えを日常生活に適用していくように努めることにより、至高主を克服することが出来ます。これをする人にとって、主クリシュナは容易に手が届くようになるからです。」 (『生と死を超えて』9章:完成への道)

「過去の偉大な聖者によって定められた原則や教えに従う人は、これらの教えを実際的な目的に活用することが出来ます。その様な人は容易に人生と喜びを楽しむことが出来ます。」 (S.B.4.1.4)

「ブラーフマナはしっかり教育されていなければなりません。ギャーナ、そして彼は知識を実際の生活に適用しなければなりません。そしてヴェーダの禁止命令を信じていなければなりません。」 (B.G.2.2-6,1972年12月11日、アフメダバッドにて)

「そしてヴェーダの知識のエッセンスは『バガヴァド-ギーター』です。何故ならば最高人格主神御自身が話しているからです。ですからこれを活用して下さい。実際的な生活に適用して、今世だけではなく来世でも幸せになって下さい。」(B.G.13.22講義、1976年8月17日、フリデラバッドにて)

もしも『ギーター』の真実を理論的にだけ理解することに満足していて、それらの真実を実際の生活に適用することについて聞きたくないのなら、私達は何の進歩もしません。

「誰もがこうした規則原則に従うことを求められているのです。原則に従わずにただ情欲、貪欲、欲求のおもむくままに行動するなら、人生を完成させることはできません。つまりこうしたことを理論的に理解していたとしても生活の中で実践しないならば、最低の人間と見なされるということです。人間としての人生を送る生物は、分別をもって与えられた規則に従い、最高の段階にまで人生を高めることが求められています。にもかかわらずこれに従わないなら、自分を堕落させてしまいす。」 (B.G.16.23.解説)

『ジャイヴァ ダルマ』の中で、ヴラジャナータがシュリー ラグナータ ダーサ バーバジィから得た知識の実際の価値について瞑想していたことを聞いています。

「今まで私はどれ程まで達成できたでしょう。私は、アチンタャ-べダベダ-タットヴァは究極的真理であると理解しました。しかしこの知識から私は何を得たのでしょう。」 (『ジャイヴァ ダルマ』ガゥディヤ ヴェーダンタ出版、19章427ページ)

私の自宅で友人と語り合う時、最後にする質問は「だから何」です。 これが意味しているのは、ヴラジャナータが「私は何を得たのでしょう」と聞いた時に意味していることと全く同じです。 「だから何」と聞くことで、今吸収したこの知識は実際的に私の人生において、どのような価値があるのか尋ねています。 私の物の見方を本当にどのように変えてくれるのでしょうか。どのように私は感じ、話し、行動するようになるのでしょうか。

次に挙げるのは、知識が実際私達の人生において強い印象を残すべき多くの方法のうちのいくつかを表した引用です。

知識は、私達がクリシュナが全てをコントロールしていることを知覚するのを助てくれます

「クリシュナが ‘私は至高主です’という時、私達は主を信念を持って受け入れなくてはなりません。けれども愚かにではなく、十分な知識を持ってです。そしてこの承認を私達の日常生活に実際、適用しなければなりません。」(『かけがいのない贈り物』5章:クリシュナ意識に確固となることを学ぶ)

「ヴェーダを完全に学び、主チャイタニヤのような権威者から知識を得て、これらの教えをどのように適用させるか熟知している博学な人は、クリシュナが物質界においても精神界においても全ての源であることを理解しています。彼はこのことを完璧に知っているので、至高主の献身奉仕にしっかり固定します。」 (B.G.10.8解説)

私達が聞くこの知識は、もっともっと定期的にサット-サンガを行いたい、シュリーラ-プラブパーダの本を定期的に語り合いたいと熱望するようになるのを助けてくれます。、

「ええ、サンガとは遂行することです。医者や、株の分配者達と交際するとなれば、単にその人の所に行き座っているだけではありません。あなたは何かをしなければなりません。サット-サンガとは、そういうことです。タッド-ヨサナット アス アパヴァルガ-ヴァルトマニ。サット-サンガとは知識を得て実際的な目的のために使うという意味です。それがサット-サンガです。ですから、私達のこのクリシュナ意識運動は、世界中にセンターを開いて、サット-サンガを与えようとしています。もしも人々がこれを役立ててくれるのなら、彼らには恩恵が授けられるでしょう。」 (ラーマクリシュナ ババジと友人との朝の面会、1977年1月9日、ボンベイにて)

「もしも私達が聖なる人々と交際して、その人達から『バガヴァド-ギーター』やその他のヴェーダ文献について聞けば、フリッ-カルナ-ラサヤナㇵ カタㇵ、それは心を動かすようになり、フリッ、耳に心地良くなります。フリッ-カルナ-ラサヤナㇵ カタㇵ タジョ-ジョサナド。それを何か実際的な目的のため、自分の人生のために適用すれば、スラダ バクティ ラティ アヌクラミシャティ。徐々にあなたは至高主に忠実になっていきます。スラダ バクティ。あなたは献身奉仕に対する自然な本能を養うことになるでしょう。」 (B.G.13.6-7講義、1973年9月29日、ボンベイにて)

私達が理解する知識は、感覚の満足に耽ることを減らしてくれもします。

「ギャーナとは理論的な知識です。そしてヴィギャーナは、実際的な知識です。例えば、科学の学生は科学的な概念を理論的に学ばなければならないと同時に、その科学を適用することも学ばなくてはなりません。理論的な知識だけでは役に立ちません。同様に、ヨーガにおいても理論的な知識だけではなく、実際的な知識も持たなければなりません。 ‘私はこの肉体ではない’と理解するだけで、同時にナンセンスな振る舞いをしているのでは、役に立ちません。 協会のメンバー達がヴェーダンタ哲学を真剣に語り合いながら、一方では煙草を吸ったりお酒を飲んだり感覚的な生活を楽しんでいる協会が数多くあります。 理論的な知識を持っているだけでは役に立ちません。 この知識は提示されなければなりません。 ‘自分はこの肉体ではない’ ということを本当に理解した人は、実際に肉体に必要なものを最小限に減らします。 ‘自分はこの肉体ではない’ と思いながら、肉体の要求を増加させているのなら、その知識に何の必要性があるのでしょう。 ギャーナとヴィギャーナが並行している時に、人は初めて満足できます。」 (『ヨーガの完成』5:二元性と称号からの解放としてのヨーガ)

上記は私達が吸収する知識は、私達が見ること、感じること、することに実際的な影響を与える無数の方法のうちのほんの少しの方法です。

私達は自宅でこの「だから何?」という質問を二通りの方法でします。:理想的な適用法と、個人的な適用法です。 理解したことを理想的に適用するということは、食事をただ体と魂を繋げておくのに必要最小限に減らすということかもしれません。 でももしも私達が大食家だとすれば(私もそうなのですが)、一晩で ‘ゼロから英雄的になること’ は実行不可能なことです。 ですから私達が理解した点の理想的な適用の仕方を語り合った後、こう尋ねます。 ‘私は正しい方向に行くために実際にできそうな、どのようなステップをとれるでしょう。’ 初心者の私達が、教えを完璧に適応できると言うのは現実的ではありませんが、私達の適用の仕方をより良くしていこうと最善の努力を尽くすことは重要です。

「私達はマハー-バーガヴァタやシュリー-チェイタンヤ-マハープラブーを真似しようとしてはいけません。自分の能力に合わせて、彼らの足跡に従おうと最善を尽くすべきです。」 (C.C.中編17.31解説)

もしも2~3人の少人数のグループで語り合う場合は、個人的な適用法について詳しく語り合うようになる可能性が極めて高いです。 私と私の夫は、毎日の『バーガヴァタム』と『ギーター』の語り合いのうち、この部分を最大限に使って、私達の人生のうちの重要な事柄を決め、私達其々の人生における挑戦に真剣に向き合うようにしています。 それよりも大きなのグループの場合は、個人的な適用方法について詳しく語り合うことはいつも出来るわけではないかもしれません。しかし少なくとも、理想的な適用方法については語り合えます。

私達が正しく理解しているとすれば、私達の疑問、困惑、誤解に対して正しく取り組み、現実的適な適用法について考えることで、徐々に私達の性格は、低い物質的様式から徳の様式に、そして純粋な徳の様式に代わっていきます。 バクティヴィノーダは師が書いた『サラナガティ』の中で、条件付けられた魂の意識を次のように要約しています。

「私は、常に変化していく不確かな意見という砂沼に深く飲み込まれています。ですからあなたへの献身は私から遠く離れたままです。この私のハートの中には、他の人に対する嫉みと嫌気、偽のプライド、名声と名誉に対する欲望、虚偽のみが宿っています。」(『バジャナ-ララサ』歌2番)

しかしながら、私達の経典に対する理解が向上し、私達が理解したことの適用法を考えるにつれ、上記の望ましくない質はゆっくり、しかし確実に、バクティにとって役立つ4つの美徳と入れ替わることになるでしょう。:

「主クリシュナが全ての生き物の中に宿っていることを知り、全ての生き物に偉大なる敬意を持って、常に尊敬の礼を捧げるべきです。これらの4つの質――謙虚さ、慈悲深さ、他の人に対する敬意、名誉に対する欲望の放棄――を持つことによって、人は高潔になります。その様な状態で、あなたは至高主の栄光を歌うことが出来るでしょう。」 (『ギータヴァリ』シュリー-シクシャシタカ:歌3番)

正しく聞き、理解し、私達の生活に適用することを考えていくことによって、私達は徐々に全ての恐れを超え、私達の人生の全ての面をバクティに変えていきます。

「ですから、もしもあなたがこの酷い繰り返しから逃れたければ、カルミーとして、あるいは、自分自身の善悪の行動の結果の享楽者として振る舞うのを止めなければいけません。良いことであれ悪いことであれ、自分のためにするべきではありません。しかし、ありとあらゆる万物の究極的所有者である至高主のために、全てのことを遂行しなけれななりません。このように仕事をするプロセスは『バガヴァド-ギーター』(9.27)にも推薦されています。そこでは主のために働くための教えが授けられています。ですから人は先ず最初に、主について聞くべきです。完璧に、詳細を探索しながら聞いたら、主の活動や行いを讃えなければなりません。そうすれば、主の超越的な質について絶え間なく覚えていることが可能になるでしょう。主について聞き、讃えることは、主の超越的な質と同一です。そして、そうすることによって、人はいつも主の交際の中にいます。これはあらゆる種類の恐れからの解放をもたらしてくれます。主は全ての生物のハートに宿るスーパーソウル (パラマートマ―) です。そして上記の、聞いて讃えるというプロセスによって、主は主の創造した万物の中にいる全てのものの交際を招待しています。主について聞き、讃えるというこのプロセスは、皆に適用されます。そしてそれは、誰であっても、その人が運命によって従事している分野の全ての究極的成功に導きます。様々な階級の人間がいます。:果報的労働者、経験主義的な哲学者、神秘的ヨギー、究極的には主の混じりけのない献身者。彼ら皆にとって、望むべき成功を達するためには、同じプロセスが適用されます。皆あらゆる種類の恐れから解放されたいと望み、人生において最大限の幸福を望んでいます。これを達するための完璧なプロセスが、今ここでシュリーラ-シューカデヴァ-ゴースワーミーのような偉大な権威者によって語られた『シュリマド-バーガヴァタム』に推薦されています。主について聞き、讃えることで、全ての人々の活動は精神的活動に形作られて、物質的悲惨さの概念は全て完全に消え去ります。」 (S.B.2.1.5解説)

オーム-タッ-サット