Srila Prabhupada

意味を、自分自身の言葉で、繰り返して言う。

何かを理解したいなら、受け身的な聞き方では役に立ちません。 活発に聞く必要があります。 それは、聞き、考え、理解したことを繰り返して言う必要があるということです。 活発に聞く訓練をすると、シュリーラ-プラブパーダとの私たちの交際は実を結び始めます。

次のようなコメントは ‘活発的に聞くこと’のうちには入りません。:

「これはとても重要な点です」とか、

「このことで私は……..を思い出しました」とか、

「シュリーラ-プラブパーダはこの点をよく強調しています」。

そのようなコメントは、私たちがシュリーラ-プラブパーダが言っていることを正しく理解していることを分からせてくれます。私が理解していると、そして他の人達も同じことを理解していると、語り合っている人々皆に分かります。 これらの仮定は全部間違っているかもしれません。

この第5番目の原則を適用するには、まず最初にシュリーラ-プラブパーダが言おうとしていることの意味を自分自身の言葉にして、語り合いや講義を始めることが一番良いです。 「シュリーラ-プラブパーダが言っているのかこういう意味だと私は理解します」等という言葉で始めるのも役に立ちます。

「それらを聞き、説明することは、ただ読むことよりも大切です。啓示経典の知識は、聞いて説明してこそ吸収できるのです。聞くことをシュラヴァナといい、説明することをキールタナといいます。このシュラヴァナとキールタナは、精神生活を高めるための最も重要な方法です。正しい情報源から素直な心で聞いて崇高な知識を会得した人だけが、主題を正しく説明することができます。」 (SB 1.1.6 解説)

「聞く方法は、唱える方法によって更に堅固になります。完璧な情報源から完璧に聞いた人は、遍在する人格主神の存在を確信し、熱心に主を讃えるようになります。」 (SB 2.2.36 解説)

「物質的なことでさえ何かを学ぶ時は、それを繰り返さなければなりません。それならば精神的なことについては言うまでもありません。」(B.G.2.55~56講義、1966年、ニューヨークにて)

「クリシュナ-ウパデシャを広めている時、クリシュナによって語られたことをただ繰り返して言いなさい。そうすればあなたはアチャーリヤになります。全く難しいことではありません。全てはそこから始まります。オオムのように繰り返して言わなければならないだけです。正確には、オオムとは違います。オオムは言っている意味が分かっていません。ただ音を響かせているだけです。でもあなたは、意味も理解するべきです。;そうでなければ如何にして説明することが出来るでしょう。」 (講義、1975年4月7日)

「あなた達は皆、必要が生じた時、解説を自分の言葉で繰り返して言えるように、全ての本を学ばなければなりません。」(手紙、1972年6月1日)

「ただ私の本から読んで、その意味を自分自身の言葉で説明してみて下さい。」(手紙、1973年1月26日)

「ハレー-クリシュナ-マントラを昼も夜も唱え、本を読み、哲学を自分自身の言葉で言い表して、記事を書いて出版して下さい。」(手紙、1975年11月15日)

「シュリーラ-プラブパーダ:そうです。 私達の人々全員、皆が書くべきです。 そうでなければ、その人が哲学を理解しているかどうやって理解することが出来るでしょう。 書くということは、シュラヴァナン-キルタナンです。 シュラヴァナンとは権威から聞くことで、それをまた繰り返して言って下さい。 これが私たちの仕事です。シュラヴァナン-キルタナン-ヴィシュヌ。[SB 7.5.23]ヴィシュヌについてです。政治家やその他どのような人についてでもありません。それが成功です。聞き、聞いた事を繰り返して言う、そして又聞き、それをまた繰り返して言う。自分勝手に作り出すわけではありません。」(到着挨拶、1975年6月20日、ロサンゼルスにて)

質問 / 私の見解

質問:活発的な聞き方の訓練をすると、シュリーラ-プラブパーダの本を読むことの実を結び始めるとあなたは言いました。 シュリーラ-プラブパーダの本を読むことの実とは何ですか。

私の見解:私が理解したことは、シュリーラ-プラブパーダの本を読むことの最初の実には二つあります。 その一つは、何が正しく何が間違っているか、何を恐れるべきか何を恐れるべきではないのか、何が束縛で何が解放か、ということに関する無知が徐々に消えていくに従い、平和になっていくということです。 もう一つの実は、その課題から超越的な喜びを味わうようになるということです。 この二つの最初の実は、私達がクリシュナと私達との超越的な関係を悟ることに徐々に進歩することを助てくれます。

上記に関する私の証拠は:

「自分の立場に応じて定められた仕事をしても、その活動によって人格主神の教えに対する魅力が呼び起こされなければ、それは全くの無益な労働にすぎません。」(S.B.1.2.8)

「自分の立場に応じて定められた仕事をしても、その活動によって人格主神の教えに対する魅力が呼び起こされなければ、それは全くの無益な労働にすぎません。」(S.B.1.2.8) (S.B.1.2.8)

クリシュナ-カタから来るより高い味わいを体験している場合だけ、私達は本当に物質的感覚満足という低い味わいから完全に無執着になることが出来ます。 私の証拠は:

「肉体を持った魂は、感覚的享楽を禁欲しても感覚の対象の味わいを記憶しています。だが、より高い味わいを経験することによってその様な活動を止めて、意識を不動にすることができるのです。」 (B.G.2.59)

クリシュナについての本を多く読むことだけから、このより高い味わいを味わうことは難しいです。 シュリーラ-プラブパーダはこのような甘露を私達には味わうことは出来ないと言っています。:

「この実際的な献身こそがシャーストラを理解する秘訣だと私は言います。献身奉仕を実行しない人にとって、本を全部読むということは、蜂蜜の瓶の外側だけをなめているのと同じだと、私のグル-マハラージャはよく言っていました。しかし私達は瓶のふたを開けて蜂蜜を味わうための秘訣を学ぶべきです。このようにしてたった一冊の本、一つのシュローカを理解することが出来れば、成功はそこにあります。アメリカでは何冊も何冊もの本を読んで、そのうちの一冊も理解できていないというのが流行っていること私は見ましたが、主チェイタンヤは本を多く読み過ぎないように警告しています。(プラドゥムナへの手紙、1968年2月17日、ロサンゼルスにて)

正しいクリシュナ-カタを決する原則がいくつかあります。 これは『バガヴァド-ギーター』16章24節の解説にほのめかされています。

「人間社会では、至高人格神を理解するための原則を嫌うことが、あらゆる堕落の原因です。」

これらの原則をより理解し、私達のクリシュナ-カタに適用するのに熟練していけばいくだけ、より早く低い物質的性質から昇進し、超越的な段階に近ずいて行きます。:

「...良い交際の文化に訓練されない限り、訓練されるまでは、良くなれません。」 (S.B.3.3.6 解説)

オーム-タッ-サット