シュリーラ-プラブパーダ

相手の立場になって聞く技術を使うことによって、語り合っている相手が自分自身の理解を養うように助けてあげるように努める。

最初にシュリーラ-プラブパーダの解説を自宅で語り合い始めた時、私たちの間で希薄なライバル意識があったため、語り合いの終わりにはよく挫折感を味わっていたものです。お互いに相手に疎外感を与え合う色々な方法があります。それらを全部試してみました。例えば、他の人の理解の仕方を軽視することがあります。「そうですね。でもそれはポイントではないですよ」等というコメントをお互いに吐き出すのはとても容易です。

シュリーラ-プラブパーダの教えと繋がろうと試みる度に、語り合っている相手の人の反感によって打ち消されると、教えに対する私たちの理解を深めることは、とても難しいです。 正直言って、どのようにして『シュリーマド-バーガヴァタム』と『バガヴァド-ギーター』を一緒に語り合おうという最初の試みを保つことが出来るのか分かりません。 幸運にも私達はある日、『チェイタンヤ-チャリタームリタ』を聞いていた時、この節が真に私達に話しかけてきました。

「通常私自身は説明できません。けれどあなたとの交際によって、何かが自動的に表れるかもしれません。」(C.C.中編24.9、主チェイタンヤからサナータナ-ゴースワーミーへ)

「あなたとの交際のおかげで、もう一つの意味が呼び起こされました。これらの意味の波が上がってくるのは、あなたの献身奉仕のおかげです。」(C.C.中編24.312.、主チェイタンヤからサナータナーゴースワーミーへ)

上記の節の両方ともに、主チェイタンヤは自分の努力だけでは本題を理解するには無力であることを明白にしています。 むしろ、何か理解できたことは全てサナータナーゴースワーミーの性質や行動のおかげだと言っています。 自分が理解したことについて、サナータナ-ゴースワーミーに功績を与えています。 主チェイタンヤが理解するのを助てくれたと言っていることについて、サナータナーゴースワーミーは何をしていたのかと考え始めました。 もしこの質問について洞察できれば、おそらく経典に対するお互いの説明を妨害し合うことを止め、もっとお互いに支え合うことを学ぶことが出来るようになるでしょう。

私達が得た見解のいくつかがこれです。

  • ステェーフェン-コヴェィの見解:
  • ⋆相手の身になって聞くことへの障害と、それに纏わる問題。
  • 相手の身になって聞くことに対する抵抗を克服することの恩恵:
  • 精神的な語り合いに、相手の身になって聞く方法を使うことに関する経典からの証拠。

ステェーフェン-コヴェィの見解:

『チェイタンヤ-チャリタムリタ』の上記の部分に私たちが繋がった頃に、とても役に立つもう二冊の本も読んでいました。:ステェーフェン コヴェィ著の『非常に効率的な人々の7つの習慣』と、エラィネ-マズリシュとアデレ-ファベェァ著による『子供たちが話してくれるように、子供たちが言うことを聞きなさい』。 これらの本は両方とも、良いコミニケーションを保つうえで相手の身になって聞くということの力と決定的な重要性に私たちを導入してくれました。

ステェーフェン-コヴェィはこう書いています。

「聞く人こそがほとんどのことを成している。話している人ではなくて。」

上記の記述は、主チェイタンヤが思いついた理解についてサナータナーゴースワーミーに功績を与えた記述に反響しています。 それで、私達はお互いの身になって聞くことを始めました。 私達のうちの一人が話す時は、もう一人は語り合っている相手が何を言おうとしていると理解したかを、活発に反映し直すようにしました。 この語り合いのテクニックは本当に私たちを大いに助けてくれました。 しかし、これは私達のムードが正しい時にだけ役に立つことを発見しました。 半分しか心を入れていなかったり、失礼な態度で、相手が言っていることを反映し直しているのでは、役に立ちません。以前やっていたお互いに横やりを入れたり無視したりする方法と変わらないくらい役に立ちなりません。 この発見はステェーフェン-コヴェィによっても、彼の本から抜き出した次の記述に実証されています。

「相手の身になって聞いてあげるという技能は、部分的には、心理的な空気を与えるということです。(相手の人が感情を探索し、感情を吐き出し、そして判断されることなく理解してもらったと感じることが出来るような、空いた空間)。これらの技能は、言葉にしていない手掛かりから気持ちを掴むこと、集中して聞くこと、明確に相手の身になった反応をすること、支えてあげること、そして誠実に聞いてあげることを含みます。しかしこれらの技能が重要な反面、相手の心理的空間を許してあげるのには、態度こそがもっと重要です。効率的に行うには、技能は、いたわりのある態度と、理解してあげたいという誠実な望みの上に成り立たなければなりません。

相手の身になって聞くことへの障害....それに纏わる問題。

私達の中には、語り合いの相手を本当に誠実に理解してあげたいと願うことは 、大変な挑戦だと感じる人が大勢います。特に語り合う相手が自分より精神的に後輩だと。 自分に属している人より自分の方が精神的に優れているという考えが文化的に強く条件付けられていると、この差別感が付いて回ります。 そうなると、妻や子供や自分に属している人達の言うことを活発にいたわりながら聞いてあげるのは時間の無駄だと感じてしまいます。 私の方がこの人達より良く知っているから、私が言うことを聞いて理解すれさえば良いのだと信じ込むという文化に条件付けられています。 このような心情は、夫が妻と、親が子と、先輩の献身者が後輩の献身者と、相互作用的に語り合うことを難しくしてしまいます。

あなたはこの体験をしたことがあるでしょうか。 あなたが話している相手が、自分の方が優れていると思っていると、そのためにあなたの言っていることを聞くことが出来ません。 どう感じますか。 私だけかもしれませんが、正直に打ち明けると、しばらくするうちに、内的に、もうその人が言っていることを聞く気がしなくなってきます。 それは私がその人に自分の価値を認めてもらえないと感じるからです。そうすると、その人達が言っていることに価値を見出すことも難しくなってきます。 徐々に私はその人達を理解するのに抵抗を感じるようになります。その人達が私のことを理解したがらないと同じように。

相手の身になって聞くことに対する抵抗を克服することの恩恵:

たとえ私達が、自分の方が他の人よりも精神的に優れていると感じているとしても、私は提案します。あなたが言うことをその人が本当に聞いてくれるように奨励する一番良い方法は、本当にその人が言おうとしていることを聞いてあげることです。 私達が言葉で言うことより、大きく話すことは何でしょう。 もしも私達が礼儀正しい活発な聞き方をするようにすると、妻や子供や精神的後輩たちも同じようにするように奨励することが出来ます。 お互いに活発に聞くということは、シュリーラ-プラブパーダの解説を語り合うのに良好な文化を生みます。そして関わっている人達皆が心地よく学べるようにしてくれます。 (ところで、『シュリーマド-バーガヴァタム』3.25.25によると、献身者とクリシュナ-カタを語り合っている時、私たちは心地よい気持ちになるべきなのです。)

相手の身になって聞くという原則を使うことのもう一つの恩恵があります。主チェイタンヤが語ったこの節の中にほのめかされています。:

「主クリシュナはあなたにとても慈悲深くあられます。何故なら、私の心を惑わせることで、主は御自身の富と甘さを暴露されました。主はあなたが理解出来るように、これらのことについて、あなたが私から聞くようにと図られたのです。」(C.C.中編21.145、主チェイタンヤからサナータナーゴースワーミーへ)

上記の節で主チェイタンヤは、主クリシュナは第三者を通して私達に話しかけることがあることを示唆しています。 全ての知性はクリシュナから来ていることにあなたも同意してくれると思います。 時には主は直接私達自身の知性を通して案内して下さいます。そして、他の人を通して私達を案内して下さることもよくあります。 自宅で私達の語り合いに、相手の身になって聞くという方法を使うようになってから、このことをよく体験します。 主は頻繁に、私達が本当に聞く必要がある何かを、私達に属している人が言うように吹き込みます。 ですからこれは語り合い手が、相手の身になって聞く訓練するのを助けるばかりか、私達にも恩恵があります。

精神的な語り合いに、相手の身になって聞く方法を使うことに関する経典からの証拠。

語り合いをする時に、相手の身になって聞く方法を使うように献身者達を奨励しようとしていた時、反対意見も受けました。 そのうちのいくつかは、めんどくさい等という単なる態度の問題です。 (私がこれまで言ってきた点のいくつかが、特にこのような反対意見を取り除くのに役立つと良いと本当に願っています。)

しかしながら、ある知的な献身者の反対意見は、私達の経典の中には、相手の身になって聞く訓練に関する直接的な証拠が見えないということでした。 むしろ、私達の経典の聞き方の典型的な方法は、ある一人の人が話し他の皆が聞くということのように見えます。

H.H.シーヴァラーマ-スワミが、相手の身になって聞く訓練を支える経典の証拠、この節を示してくれた最初の人でした。

「これらの事柄にについて聞いて、四つの頭を持つブラフマーは、超越的喜びの巨大な宝物に圧倒され、教えられた点其々について静かに言い繰り返して、同意しました。そして主の御足に何度も何度も尊敬の礼を捧げました。」

解説:「主が次の節を続ける前に、ブラフマーは主の言葉を理解したことを示すために、其々の点を義務深く繰り返しました。そして完全に同意したことを確証しました。」(『シュリー-ブリハッド-バガヴァタムリタ』2.2.134解説)

その後私は他の例を聞きました。 ここに『ジャィヴァ-ダルマ』からの二つの例があります。(ゴウディャ-ヴェーダンタ出版と、ブリハッド-ムリダンガ出版の両方の訳文を載せました。):

「チャンディダース:今日私は祝福を受けました。最も尊敬されるべきバ―バジー-マハーシャヤの口から流れ出す全ての教えの中で、これらの点は私が理解することが出来た点です。」 (『ジャィヴァ-ダルマ』151ページ、ゴウディャ-ヴェーダンタ出版)

「チャンディダースは答えました。最も尊敬されるべきアナンタ-ダーサ-バーバジーから授けられたこれらの素晴らしい精神的な教えを、私は吸収することが出来ました。」(ブリハッド-ムリダンガ出版の翻訳、150ページ)

上記の引用でチャンディダースは、アナンタ-ダース-バーバジーが彼に教えてくれたことで自分が理解したことを自分の言葉で繰り返して語っています。 これは相手の身になって聞くことの実例です。

『ジャィヴァ-ダルマ』からの二つ目の例は次の通りです。

「(ラヒリ:)さて、ニッチャとナイミティカ-ウパサナ(崇拝)の異いをあなたは理解したと、私は期待しています。」

デヴィダーサ:はい。バガヴァーンのシュリ—ヴィグラハ(神像)を崇拝しても、そのヴィグラハが永遠であることを認めないのならば、それは永遠な対象の崇拝ではありません。」(ゴウディャ-ヴェーダンタ出版、89ページ)

(ラヒリ:)「ニッチャ-ウパサナ、永遠な神像崇拝と、ナイミティカ-ウパサナ、一時的な儀式的な神像崇拝の異いについて、あなたは啓発されたと私は期待しています。」

(デヴァダーサ:)「はい!シュリー-ムルティを崇拝しても、この姿を永遠だと受け入れなければ、その様な崇拝は物質的なもので、精神的なものではありません。」(ブリハッド-ムリダンガ出版、59ページ)

上記の引用で、デヴァダーサは、ラヒリが彼に教えたことから理解したことを、自分自身の言葉で反映しています。 これは相手の立場になって聞くことのもう一つの例です。

そして『シュリマド-バーガヴァタム』6.1.1-5で、パリキシット-マハラージャは、今までスーカデーヴァ-ゴースワーミが教えてきたことで、自分が理解したことを要約しています。 これは相手の立場になって聞くことのもう一つの例です。

オーム-タッ-サット