シュリーラ-プラブパーダ

謙虚に、感謝を込めて、お互いの価値を認め合って、敬意を表しながら語り合う。

個人的には私はこれが最も重要な原則だと思っています。 あなたも私と同じかどうかは分かりませんが、この人は格闘的なスタイルで語り合いをする人なのかと恐れをなしていまうような相手がいると、私の考え方のプロセスは差し押さえられてしまいます。 心理的に力を与えられると感じるどころか、心理的に息がつまるような思いをします。 私のことを個人的に落ち込ませたことがない人でも、「きつい」という評判があるというだけで、その人と心を打ち明けて語り合うことは、私にとって不可能だと思ってしまいます。 でも穏やかで礼儀正しく、私が経典を理解しようと試みていることを認めてくれる人となら、気持ちがリラックスして、知性も作動します。 その様な人との交際で、より良い考え方が出来るばかりでなく、より心地よく感じます。 そして心地よく感じることは、次の節で証拠付けられるように、クリシュナ-カタのとても重要な一部です。

カタヤンタス チャ マーㇺ ニチャㇺ/ トゥシャンティ チャ ラマンティ チャ

「...常に私について語り合い、互いに啓発しあうことに無常の満足と至福を味わいます。」(B.G.10.9)

「トゥシャンティ チャ ラマンティ チャ」という言葉は其々に、「喜ぶ」、「超越的な至福を楽しむ」という意味があることに注意して下さい。 ということは、クリシュナ-カタはとても喜ばしいこと、そして超越的に楽しいものであるべきだと言えます。

『シュリマド-バーガヴァタム』もよく似た点を指摘しています。

サタ―ㇺ プラサンガン ママ ヴィ―ルャ-サㇺヴィド バヴァンティ フリッ-カルナ-ラサーヤナー

「純粋な献身者の交際の中では、最高人格主神のリーラ、活動について語り合うことは、耳にもハートにも、とても喜ばしく満足感のあるものです。」(S.B.3.25.25) …….

「フリッ-カルナ-ラサーヤナー」という言葉は耳とハートにとても喜ばしいという意味であることに気を付けて下さい。 ということは、クリシュナ-カタは耳とハートに喜ばしいものであるべきだということです。

クリシュナ-カタを正しく行っている時に私達が体験するものは、クリシュナ-カタへの味わいが、徐々に感覚の満足に取って変わるように、感情的にも知性的にも満足がいくものであるべきです。 クリシュナ-カタをする時に決闘的態度をとっていては、このようなことは起きません。 もしも私たちが決闘的な性質を帯びていると、他の人を議論で打ち負かすことに喜びを得るかもしれません。しかし他の人達は、私達と語り合うことにもう魅力など感じなくなってしまうでしょう。 そして徐々に他の献身者達は誰も私達とクリシュナ-カタを語り合いたくなるでしょう。 もしもこうなってしまったら、それは私達にとって大変な精神的損害です。何故ならば、クリシュナ-カタを基にした友好関係は私達が精神的に進歩するのに命のように絶対無可決だからです。

「献身者にとって、俗的な人と友好関係を持つことは意味がありません。お互いに語り合うことによって、双方が精神的理解に向上出来るように、献身者と友好関係を持つべきです。これをイシタ-ゴシティーと呼びます。」 (S.B.3.29.17解説)

「クリシュナについて語り合うことには非常に力があるので、そのような交際を得られた幸運な人は、知識を吸収しようとします。そうして精神的な悟りに向かって確実に高められていくのです。」 (B.G.9.1 解説)

献身者との交際は貴重です。私達が経典を語り合えるようにしてくれるからです。

他の献身者との交際から最高の恩恵を得られる反面、その人達を侮辱することで最悪の害をももたらします。:

「マハープラブ―は言いました。:ジャガーイとマーダーイの罪の反動の姿は黒です。皆さん、キールタンをして下さい。そうすればこれらの黒い罪の反動は、献身者を批難する人の中に住むようになるでしょう。そしてジャガーイとマーダーイは彼らの罪の反動から救われます。」 (C.C.中編13.302)

ですからヴァイシュナヴァ-アパラーダという危険な落とし穴を避けながら、最高のものを得ることが出来るようにするには、主クリシュナが『バガヴァド-ギーター』17.15で教えてくれたように、話し方の苦行をするべきです。

「言葉に関する苦行とは、真実を語ること、誠実で、心地よく、有益なことを話し、他人を乱す言葉を使わないこと、そして定期的にヴェーダ文献を朗唱することです。」(B.G.17.15)

更に謙虚さと自尊心が無いことの二つは、献身者が超越的知識を得るためには先ず絶対に身につけておく必要がある重要な性質です。 ですから経典を語り合う際に、同時に謙虚さと自尊心を失くすという恩恵もあります。それをしなければ経典を理解することは出来ないからです。

アマニトゥヴァㇺ アバㇺビットゥヴァㇺ

アヒㇺサ クサンティ アルジャヴァㇺ

アチャルヨパサナㇺ サゥチャㇺ

スタィヤㇺ アトマ-ヴィニグラハッ

(B.G.13.8)

クリシュナ、至高の権威者、最高人格主神が、知識を身につけるプロセスについて話しています。 ギャーナ。 知識の最初は謙虚さです。 主チェイタンヤ-マハープラブはこう教えています。

トㇽナド アピ スニチェナ

タロラピ サヒシュヌナ

アマニナ マナデナ

キルタニヤㇵ サダ ハリㇶ

(C.C.前編17.31)

「この謙虚さ、慎ましさはあらゆる所で教えられています。穏やかでなければ、どうやって知識のある人になることが出来るでしょう。...ヴィダャ-ヴィナヤ-サㇺパネ ブラフマネ。ブラーフマナにならなければなりません。ブラーフマナとはヴィダャ-ヴィナヤ-サㇺパネ ブラフマネ。学識があり、そして謙虚でなければなりません。...。ヴィダャとは、その人は穏やか、ナムラという意味です。それがヴィダャです。教育とは不必要に高慢になることではありません。

...ですからクリシュナは言いました。知識を身につけるプロセスにおいて、人はとても謙虚で従順でなければなりません。」(B.G.13.8-12講義、1973年10月3日、ボンベイにて)

質問 / 私の見解

質問1:この原則は、サチャㇺ(真実を語る、誠実)という原則と取って代わるのですか。

私の見解:シュリーラ-プラブパーダの本や講義の中には、真実を守るためには穏便さを差し置くことが勧められることもあることを勧めているような記述があります。 いくつかの引用を下記に挙げていきます。それらは、其々、前例のものよりも強い確固とした話し方に見えます。 引用した後、何故私が「サチャㇺ(真実を語ること)が、謙虚に感謝を込めて敬意を示しながら、お互いを正しく認識しながら、献身者と経典を語り合うというこの原則に取って代わる必要はないと思うかを説明します。

引用1:「その結果として、サドゥ、自己を悟った人は、物質的な交際に対する執着を切り捨てることが出来るのです。これは良い交際の大きな得点です。例えばクリシュナはアルジュナに、この物質的な愛情に対する執着を切り捨てるために『バガヴァド-ギーター』を語りました。アルジュナは自分の義務を行うのに妨げになるものに魅かれていたので、クリシュナはそれらのものを切り捨てたのです。何かを切り捨てるには、鋭い道具が必要です。そして心を心が執着しているものから切り離すには、時にして鋭い言葉が必要とされます。サドゥあるいは先生は、生徒の心を物質的魅力から切り離すのに鋭い言葉を使うことを遠慮しません。妥協しないで真実を話すことで、束縛を切り捨てることが出来ます。例えば、『バガヴァド-ギーター』の初めにクリシュナはアルジュナに、彼は学識のある者のように話してはいるが実は第一級の愚か者だと、鋭く話しかけています。もしも私達がこの物質界から無執着になりたいのなら、その様な鋭い言葉を精神指導者から受け入れる覚悟をしておくべきです。強い言葉が必要な時に、妥協やおせいじは何の効果もありません。」 (『ヨーガの完成』4章「体と心を支配するヨーガ」)

私の見解:上記の引用は、私達が他の献身者と経典を語り合っている時に、自分が同意できないことを誰かが言えば、その人に向かって酷い話し方をすることで良いことをしてあげているという意味にも取れます。 それは経典に対する自分の理解は完璧完全で、他の人の理解は間違っていることを前提としています。

しかしながら、私はこの引用を別のように理解しました。 上記の出来事は弟子と精神指導者の間の関係を記述しています。 精神指導者は、嫉みがなく、知識に確立されているべきです。 又精神指導者は、弟子をクリシュナの一部分として愛しているべきです。

「ヴィシュヌへの愛を育んだ人は、ヴィシュヌの献身者への愛と敬意も育んでいなければなりません。」 (S.B.4.4.10解説)

その様な向上した精神指導者が厳しく話す時、その言葉は愛と同情心と知識から来ています。 いうまでもなく、精神指導者を受け入れることで、弟子は、グルは自分よりもっと良く知っているということを受け入れていること、そして彼はグルの自分に対する接し方は愛を基にしているものであり、嫉みからではないと認めていることを示しています。 その様な状況で弟子はグルが叱ってくれることを祝福として受け入れます。 しかしながら、それが確立された関係でなければ、私達のきつい言葉は私達の間に決闘的な競争心を生み出してしまいます。 この理由でシュリーラ-プラブパーダは『バガヴァド-ギーター』17.15にこう書いたのです。

「勿論教師が話す場合、自分の生徒に教えるためには真実を伝えなくてはならなりません。しかしその様な教師でも相手の心を乱すようであれば、自分の生徒ではない人にはそれを言ってはいけません。これらが話すことの苦行です。」(B.G.17.15)

主チェイタンヤがケシャヴァ-カシミーリと対面した時に取った愛情に溢れたマナーを思い出します。 主は、彼に不必要な酷い悲しみをもたらすことなく、彼の無知を取り除く方法を注意深く考えました。 ここに『チェイタンヤ-バガヴァタ』前編13章からの引用があります。どうすればディグヴィジャヤの高慢さを治すことが出来るかと考えていた時のことです。

「このブラーフマナは随分高慢になっている。世界中で誰も自分を負かす者がいないと思っている」と主は考えました。 「もし彼を大衆の面弁で卑しめたら、それは彼にとって恥ずべき死のようなものだろう。人々は彼を軽蔑し、彼は全てを失う。そしていずれ恥をかかされたことから死んでしまうだろう。だから私は彼と人里離れたところで秘密で対面するべきだ。と同時に彼が必ず当落するようにしよう。そうすることで、私は彼を破壊することなく、彼の自惚れを除いてあげられる。」

更に、主がディグヴィジャヤと話た時、彼が軽蔑されたと感じさせることなく、無知を取り除くことが出来るように接しました。

「主の振る舞いはとても穏やかで同情心に満ちていて、負かされた人でさえ卑しめに苦しむことはありませんでした。」 (C.B.前編13章)

私が思うには、これが、鋭い言葉を弟子の恩恵のために話すという真の精神指導者です。 彼は健康な生組織を傷つけることなくメスを使って、癌細胞を取り除く技術に長けた手術医師のようです。

自分の弟子ではない人にきついことを言うのも逆効果があるかもしれません。 自己を悟った魂でない限り、私たちは無知や激情の様式に影響されるかもしれません。その場合、侮辱を犯してしまう危険があります。そしてそれは自分自身の精神的進歩を遮るようになるでしょう。 自分は正しい、自分とは異なる理解の仕方をしている相手が間違っていると思い込むことで、私達は自分の視野を広める機会を失ってしまいます。 しかし最悪なのは、主に嫌な思いをさせてしまうことです。 ここに『チェイタンヤ-バーガヴァタム』からのもう一つの引用があります。ここで主は、ケシャヴァ-カシミリの傲慢な論議の仕方に関する報告に対して、返答しています。

「聞きなさい、兄弟達よ。私はあなた達に実情を言います。至高主は誰であっても無礼な行いをし続ける人を耐えられません。自分の持っている何かの性質からくる高慢さという重みを抱えている人を見つける時はいつも、常にその人のプライドの原因を取り除きます。果樹に溢れた樹と、良い性質に溢れた人は、必ず謙虚にお辞儀をして頭を下げます。その他にもハイハヤ、ヴェ―ナ、バナ、ナラカ、ラーヴァナ等の例についても聞いたことがあるでしょう。至高主は彼らの横暴なプライドを取り除くことを怠ったでしょうか。いいえ、怠りません。主はそのような無知的な無謀を決して耐えません。ここナヴァドヴィ―パであなた達は、この横柄な学者の終わりを目撃するでしょう。」 (C.G.前編13章)

引用2:「サッティヤムとは正直さ、すなわち他の人のためにも事実はありのままに話すことです。事実を偽って伝えてはなりません。他人が不快にならない場合にのみ真実を言うのが社会の慣習ですが、これを正直とは呼びません。真実は率直に述べなくてはなりません。そうすることによって人々は何が真実なのか理解できるのです。盗人がいたとして、その人が盗人であることを他の人達に知らせて警告することは正直さです。時として真実は受け入れてもらえないことがありますが、それでも真実を語ることを避けてはなりません。人のためにも真実はそのまま報告するべきです。それが正直さの定義です。」 (B.G.10.4)

私の見解:上記の引用は他の人が何か間違ったことを言ったら、その人が間違っていると言うことで、彼の誤った見解から他の人を守ってあげるのが私の義務だと言っているようにも理解できます。 もし彼が間違っていると言われたくなければ、それは彼の問題です。

しかし私はこの泥棒のような人のことを無神論者、主の最高の所有権を否定する無神論的哲学を説いている人々のことだと理解しました。 クリシュナは最高人格主神で、全てのものは主の奉仕に使われるべきだと私達が言う時、彼らはそれを好きではないかもしれません。けれど私達は真実を言わなければなりません。

私にはこれが、クリシュナに服従しようとしている他の献身者とどのようにして語り合うべきかを教えているものとは理解できません。

引用3:「世界は、サッチャン ブルヤット プリヤㇺ ブルヤット マ ブルヤット サッタャㇺ アプリヤㇺのようです。真実を話しても良いけれど、望ましくない真実は言わないで欲しい、と彼らは思います。しかしそれは社会的な礼儀です。あなたが精神的生活について話す時には、その様な余地はありません。あなたは真実を話さなければなりません。「はい、そうです。あなたは愚か者です。あなたはクリシュナ意識ではないので、愚か者、ㇺダㇵです。あなたは罪深いです。あなたは人類の中で最低です。」 クリシュナが言いました。 クリシュナは「ナ マㇺ ドゥスクリティノ ㇺダㇵ」と言いました。

ですからこれがテストです。これがテストというのは、クリシュナ意識でなければ、即ち彼は罪深い活動をしているグループに入ります。つまり愚か者、人類の中で最低、マヤヤパフリタ-ギャ―ナ、全ての知識が取り去られる、そしてアスラ、ヒラニャカシプーの家族、ヒラニャカシプーの分野です。ですからこれは「私がクリシュナ意識を受け入れないのは、私の望み、願いだ」という選択があるわけではありません。いいえ、その様にあなたが望むなら、あなたは処罰されます。あなたはすぐさま...。あなたは「これは私の選択だ。私は泥棒になったとしても、正直者のままでいられる」とは言えません。いいえ、あなたは泥棒になると即座に処罰されるのに値します。同様に、クリシュナ意識でない人は誰でも即座に処罰されるのに値します。」(S.B.7.9.10講義、1976年2月17日、マヤプールにて)

私の見解:上記の引用は、シュリーラ-プラブパーダは、誰かが私達の意見から見て何かについて誤って理解している場合、私達はその人を愚か者、ㇺダㇵ、罪人と呼ぶことを勧めていると理解できます。

しかしながら私は上記の引用は、無神論的な科学者やマヤヴァディに対するプリーチングについてだと理解しました。 私は上記の出来事に関する引用については、言うことが多くあると感じます。

「ですからこれがテストです。これがテストというのは、クリシュナ意識でなければ、即ち彼は罪深いグループに入ります。つまり愚か者、人類の中で最低、マヤヤパフリタ-ギャ―ナ、全ての知識が取り去られる、そしてアスラ、...。」

私の理解したことは、私たちはアスラがしている偽の宣伝については強く話すべきですが、スラ達と話す時は穏やかでいるべきだということです。

「二種類の人類があります。:ダイヴァ アスラ エヴァ チャ。ドヴァゥ ブータ-サルガゥ ロケァスミン ダイヴァ アスラ エヴァ チャ (B.G.16.6) この世界には二種類の人類がいます。一種はダイヴァ、半神(デーヴァ)と呼ばれ、もう一種はアスラと呼ばれます。デヴァタとアスラについて聞いた事がありますね。彼らはいつも争い合っています。ダイヴァスラ。では誰がアスラで、誰がデーヴァでしょう。ヴィシュヌ-バクタ スムリト ダイヴァ。至高主、ヴィシュヌの献身者はデヴァタです。アスラ タド-ヴィパルヤヤㇵ。そしてヴィシュヌの献身者でない人、他の半神、たとえ主ブラフマーや主シヴァの献身者であっても、その人達はアスラとして考えられます。」

(S.B.3.25.8講義、1974年11月8日、ボンベイにて)

もしも誰かがクリシュナに服従しようとしないで、非人格的な宣伝をして他の人々を誤って導こうとしているなら、私達は彼らは愚か者だと指摘しなければなりません。 これはサダナ-バクティの訓練を最善を尽くして行っている人々と語り合うことについて指しているのではありません。 たとえサダカが誤った理解の仕方をしていたとしても、その人は愚か者ではありません。その人を愚か者として扱うのは何の役にも立ちませんし、私達両者にとって傷害にさえなります。 私がきつく当たることがどんなに他のヴァイシュナヴァを傷つけてしまうでしょう。 その人がクリシュナ意識になろうとして努力しているのを落胆させてしまうかもしれませんし、アパラーダを犯す気を起こさせてしまうかもしれません。 いずれにしても、私達がいくら正しいことを言って彼らとシェアしようとしても、おそらくその人達は何も聞く気にはならなくなるでしょう。 彼らは私達が反対者だと見るようになるからです。

シュリーラ-プラブパーダは、たとえ愚か者を暴露する時でさえ、彼らを個人的に卑しめようとはしなかったという点を、私は指摘したいです。 ュリーラ-プラブパーダは、彼らの愚かさを暴露しましたが、その人物を個人的に暴露することはありませんでした。 私の実証は、彼らのナンセンスな宣伝に反して討論している時、シュリーラ-プラブパーダはよく「名前を挙げたくはありません」と言っていました。 この言い方に関して、ヴェーダバセには9つの当たりがあります。 師は何か偽の宣伝や誤った態度につて言い、それに関わっている人の名前を言うことなく、偽の宣伝や誤った態度自体を暴露するようにしていました。 つまり、心の固い非人格者たちに対してさえ、個人的に相手を卑しめることのないように、何らかの考慮を表していました。

質問2:誰かが正しくないことを言ったら、その人のためにも他の人のためにも、そのことを言ってあげた方が役に立つのではありませんか。

私の見解 私の見解:私個人としては、たとえ誰かが「あなたは間違っている」とか「私はあなたに同意できない」等の柔らかいことを言ったとしても、心情的にも知性的にもその人から引きたいと感じます。ましてやその人が酷い攻撃を仕掛けてきたら、言うまでもありません。 あなたがシクシャ-グルやディクシャ-グルとして受け入れていない人から、「あなたは間違っている」と言われた時のことを思い出して見てください。 どう感じましたか。 引く感じになりましたか。

多くの読者の方々が、「私はあなたと同意できない」と言うことのどこが悪いのか、私達はいつもそう言っている、そんなにきつくもないし無礼でもない、と思っていることが想像できます。

私はそれがきつくも無礼でもないことには同意しますが、それは他の人の考えに対する評価が欠けていることを示しています。 私自身の体験からすると、その様なコメントは容易に、私が考えたりコミニケーションをする能力を弱めてしまいます。 原則8の一箇所で、相手の身になって聞くことが、相手の心理的空間を与え、それによって考えることが出来るようになることを、ステフェン-コヴェィが説明していたことを引用しました。 逆に言えば、誰かが「あなたは間違っている」とか「私はあなたに同意できない」と言うと、語り合っている相手が、心理的に息が出来なくなるようにしてしまいます。 相手は喧嘩腰になるか、恐れてしまうかのいずれかです。 どちらにしても一度このように即決で却下されると、冷静な頭で考えることが難しくなります。

質問3:もっと他に人々を助けられる建設的な方法はありますか。

私の見解 私の見解:勿論お互いに同意しないことがあるのは当然です。 しかし、このブログにシェアした良いサドゥ-サンガの原則を適用することで、異なる見解は献身者同士の間で建設的なエネルギーに導くことを私は時として何度も体験しました。 私達皆、自分の理解が育つばかりか、お互いを認め合い敬意と感謝の念、あえて言うなら、愛情も増加します。 これがサダナ-バクティを正しく行っていれば起こるべきことです。 私の実証は次のS.B.5.18.9の節からです。

「全宇宙に幸運がありますように。嫉み深い人が皆慰められますように。生きとし生けるもの全てが、バクティ-ヨガを行うことによって、落ち着きを取り戻しますように。献身奉仕を受け入れることで、彼らはお互いのためを思うことが出来るようになるからです。ですから私達皆、最高に超越的な御方、主クリシュナの奉仕に従事しましょう。そしていつも主のことをを考えることに没頭していましょう。」(S.B.5.18.9)

良いサドゥ-サンガがいかに効果的になりえるかについて、簡単に説明させて下さい。 私の語り合っている相手が何かを読んで、それが何を意味しているかと自分が理解したことを話してくれた時、まず最初に私は、その人が言ったことを相手の身になって反映してみます。 その人が言おうとしていた意味を、本人が言ったより良く表現しようと努めます。 そうするとそれはその人が自分の考えを鏡に映したように聞く機会を与えます。 もしもその人が読んだ内容を誤解していたとしたら、こうするだけで、自分を正す助けになります。 更に、私達はお互いにとても敬意を持って接しているので、面目を失う恐れという偽のエゴもありません。 自分の心を変えても気にしません。

もしも私が相手を理解することでその人が自分で自分の間違いを正すことを助けられなかったら、それでもなお理解しようとし続けます。 相手の理解したことに対して否定的なコメントはしません。(それはお互いに背中合わせになってしまう方法だからです。) 私達の基本的な言い方は「あなたの見解をシェアして下さってありがとう。これはとても興味深いです。そんな風に見たことは今までありませんでした。では、これが私の見方です。」 それから自分の理解をシェアします。 もしも相手の理解がはっきり間違っていたら、語り合いのこの段階は、自分を正す機会を与えます。

そして私達は質問を続けます。 私は、相手の理解について困惑している点や疑問を持った点について明確にしてくれるように、敬意を持って頼みます。 私の困惑や疑問を挙げることで、相手が自分を自分で正すもう一つの機会を与えます。 最後に、私達は自分の見解を経典の引用を基に支える必要があります。 それで私達は一緒に、私達の見解を証明する引用をヴェダバセで探索します。

このプロセスが終わる頃には、二人とも最初の理解を変えているかもしれません。あるいは二人とも、相手の理解を含めることが出来る、より広い理解を得るかもしれません。 又、お互いに同意できないことに同意することになって終わる可能性もあります。 しかし、もしもそうなったとしても、私達の間に良い意図があることは妥協されず、お互いに良い意味での影響を与え合うために心を開き続けます。 確かにこれらの原則を適応することで、私達は語り合いをもっと楽しむようになるでしょう。 そして私達は物事を色々な角度から見るという訓練が出来るようになるでしょう。 それはシュリーラ-プラブパーダが私達にするように指示して下さったことです。

「もっと私の本を読むことを増やし、別々の視野から理解するように努めるようにと、私はこの頃とても強調しています。其々のシュローカは大変多くの視野から見ることが出来ます。ですからこのように物事を見るように訓練してください。」(トリブヴァナータ宛の手紙、1972年6月16日、ロサンゼルスにて)

これらの恩恵は、私達がこの原則9:謙虚に、感謝を込めて、お互いの価値を認め合って、敬意を表しながら語り合うということを適応しない限り、不可能です。

オーム-タッ-サット