Srila Prabhupada

論争してはいけない。 異なった、正統な理解の仕方があることを受け入れる。

其々の節には、正当な道理にかなった意味が色々あります。 主チェイタンヤは『シュリマド-バーガヴァタム』1.7.10のアートマラーマ節を61通りの意味で説明しました。 そして主は『シュリーマド-バーガヴァタム』の全ての節も同様に、多くの色々な正当な道理にかなった意味のある理解の仕方があると教えました。

「『シュリーマド-バーガヴァタム』は全てのものに保護を与える御方である至高主、クリシュナと同じくらい偉大です。『シュリーマド-バーガヴァタム』の一つ一つの節全て、一つ一つの言葉全てに多くの意味があります。」 (CC M 24.318)

主チェイタンヤの足跡に従って、シュリーラ-プラブパーダは、私達も多くの視野から師の本を理解する訓練をするべきだと教えてくれました。

「もっと私の本を読むことを増やし、別々の視野から理解するように努めるようにと、私はこの頃とても強調しています。其々のシュローカは大変多くの視野から見ることが出来ます。ですからこのように物事を見るように訓練してください。」(トリブヴァナータ宛の手紙、1972年6月16日、ロサンゼルスにて)

もしも一つの節に一つ以上の正しい理解の仕方があることを受け入れなければ、自分とは異なる見方をする献身者と論争しがちになります。 その様な論争的な語り合いは、関わっている人皆にとって、とても不愉快なものになってしまいます。 しかし、『シュリーマド-バーガヴァタム』3.25.25によれば、クリシュナ-カタの語り合いはとても味わいのあるものであるべきです。 その様な味わいのある語り合いは、バクティの真実について鍵を開けて、より高い味わいを体験するのを助てくれます。

「実際ヴェーダの経典は、クリシュナ-カタ、クリシュナについての話題です。論争クラブのための課題ではありません。 それは献身者のためのものです。 非献身者は『バガヴァド-ギーター』や『シュリーマド-バーガヴァタム』を読む時間をただ無駄にしています。私達がよく言うことですが、名前ばかりの学者たち、政治家たち、哲学者たちは『バガヴァド-ギーター』を説明しようとする時、ただ人を誤って導くコメントばかりを挙げています。 シュリーラ-バクティシダンタ-サラスヴァティ タークラは彼らはふたの閉まった蜂蜜の瓶をねぶっている人のようだと、よく言っていました。 どうやって蜂蜜を味わえばよいかを知らない人は、瓶をなめ始めます。しかし本当に蜂蜜を味わうには、瓶のふたが開けられなければなりません。そしてそれを開ける鍵は献身者です。 ですからこう言われています。

サタㇺ プラサンガン ママ ヴィルャ-サムヴィド

バヴァンティ フリ-カルナ-ラサヤナㇵ カタㇵ

タッ ジョサナド アサヴァパヴァルガーヴァルタマニ

シュラダ ラティ バクティ アヌクラミシャティ

「純粋な献身者の交際において、最高人格主神のリーラや活動についての語り合いは耳にもハートにもとても喜ばしく、満足間に満たされるものです。その様な知識を養うことで人は徐々に解放への道に進歩していきます。その後彼は解放され、主への魅力に固定します。そうすればその時本当の愛、献身奉仕が始まるのです。」(S.B.3.25.25)(TLK Vs 34)

多分あなたも、論争的な心情でプラブパーダの教えを語り合うと、その様な語り合いはとても不愉快になってしまうことを体験したことがあるかもしれません。 「それには賛成できない」とか「それは間違っている」というコメントは語り合っている相手の人を傷つけてしまいます。そしてその人が私達に正直に心を開いてシェアすることを難しくしてしまいます。 人を傷つけるようなコメントは、耳障りとかキツイとかいう域を遥かに超えている場合があります。その結果、他の意見を持っていることによってお互いの真剣さや動機に対して、暗黙のうちに侮辱し非難し合いうことになってしまうことが実に頻繁にあります。 その様なきつい関わり方は、クリシュナ-カタへの味わいを与えるのに私達のためになりません。 それより更に悪いのは、良いことをするどころか、献身者を侮辱することで、自分に精神的害を与え、主を不快にします。 ここに『チェイタンヤ-バーガヴァタム』から、主の献身者を侮辱することの危険性について思い出させてくれる酔い覚ましの教えがあります。:

「マハープラブは言いました。『ジャガイとマダイの罪深い反動の形は黒です。皆さん、キルタンをしなさい。そうするとこれらの黒い罪の反動は、献身者を批難する人の所に行きます。そしてジャガイとマダイは彼らの罪から救われるでしょう。』」 (C.C.中編13章302節、題「ジャガイとマダイの救出、シュリー ヴリンダ―ヴァン ダース タークラ著」

質問 / 私の見解

質問1.「それには賛成できない」とか「それは間違っている」ということの何が悪いのですか。

私の見解 少し間をおいて内省的になって見てください。 あなたの精神指導者として受け入れている人ではない人と、シュリーラ-プラブパーダの本に書いてある文章の意味について、あなたの理解の仕方をシェアするとします。 その文章についてのあなたの考えを表現した時に、相手の人が「あなたは間違っている」とか 「うーん、私はあなたには賛成できない」と怒鳴りつけてきたら、あなたはどう感じるか想像してみてください。 内省的になってみて下さい。 どう感じますか。 もしもあなたが私みたいな人なら、すぐさま心は自己防衛モードになるでしょう。そしてその課題に関して深く考える能力は中断してします。 更に拒絶されたという不愉快な感情が残ります。 クリシュナ-カタは喜ばしい体験であるはずであることを考えると、その様なコメントはとても望ましくない結果を生むものです。 その人はあなたが間違っていると確信させるかどうかも疑わしいです。 あなたのパーソナリティのタイプにもよりますが、論議し返すかもしれないし、シェアするのをただ止めてしまうかもしれません。 その人を既に精神指導者として受け入れているのなら別の話です。

質問2.他の人が間違っていたらどうしますか。 もし私がそのことをその人に言ってあげなければ、その人たちはどうやってより良いことを知ることが出来るのでしょう。

私の見解 もう一つの良いサドゥ-サンガの原則は、間違った概念を除去することより良い効果があります。私達の間では自己防衛的になる必要を感じないという状況で、安全で調和に満ちた感情的雰囲気を育てるからです。 自分を相手の身において相手の理解の仕方を聞いてあげること(原則8)は、相手が最初に考えていたことから改善するのを助けるのに充分かもしれません。 このことについては原則8について説明する時にもっと話します。 もしも相手がそれでも同じ見解を持ち続けているのなら、(そしてあなたは相手が間違っていると確信しているのなら)、あなたの考え方を丁重にシェアすることもできます。(原則9) 例えばあなたは彼らの考えについて「それは興味深い見解ですね。私は別の見方をします」と言うこともできます。 それから自分の理解の仕方をシェアして下さい。 原則10:意味を明確にする質問をする、原則14:必ず自分の見解が経典の証拠によって支えられているようにする、ということもあります。 これらの原則が全て適用されるようになると、自分自身の理解の仕方も成熟し、他の人の見解を見極めることが出来るようにないます。

質問3.主チェイタンヤはよく論争していました。 例えば、主はサルヴァバゥマ バタチャ―リヤやマヤヴァディのサニヤーシ達と論争しました。 ですから何故シュリーラ-プラブパーダは、クリシュナ-カタは論争クラブの課題ではないというのですか。

私の見解 それは「論争」という言葉をどう解釈するかによります。 「論争」という言葉の意味の一つは「熟考」です。 このタイプの論争は受け入れられます。そしてサンスクリット語でそれはヴァダと呼ばれます。 論争」の他の意味は「言い争う」「反論する」「論破する」です。 このマナーで論争する時、それはサンスクリット語でジャルパ、又はヴィタンダと呼ばれます。 シュリーラ-プラブパーダが、クリシュナ-カタは論争クラブの課題ではないと言った時、それは後記の二つのタイプの論争によっては理解できない、味わうことが出来ないということを意味していたのだと私は理解しています。

質問4.ヴァダ、ジャルパ、ヴィタンダとは何ですか。

私の見解 私の見解:次のものは『ギータ-ブーサナ』10.32におけるシュリーラ-バラデーヴァ ヴィダャブサナのコメントからです。「双方が証拠議や議論によって自分の意見を確立しようと、相手の視野の裏をかいて論破すること、...偽に一般化すること...そして三段論法欠点...それがジャルパと呼ばれます。一方が自分自身の意見を確立することなく、相手の視野を(上記の方法で)論破する時、それはヴィタンダト呼ばれます。これらの2種類の論争は、勝つことを望んで、ただ単に論争の技術を見せるものであり、何の結果も生み出しません。真実への望みを持ち語り合うことはヴァダと呼ばれます。真実を決定的なものにするという結果をもたらすことに優れていて、ヴァダは私のヴィブティです。」

質問5.次の言葉はどういう意味ですか:「出し抜くこと」、「偽に一般化すること」、「三段論法の欠点」。

私の見解: 出し抜くことは、本当の問題点を後ろから回ることや、抜かすことです。

偽に一般化することは、二つの前提によって支えられている結論について議論することです。そのうちの一つ(主な方の前提)は、結論を断定するテーマ(主な方のテーマ)を含んでいます。そうしてもう一つ(重要でない方の前提)は、結論の主題のテーマ(重要でない方のテーマ)を含んでいます。;両方前の前提の共通点は、結論から除かれるテーマ(真ん中のテーマ)です。 典型的な公文は「全てのA はC;全ての Bは A ;ですから全てのBは C」です。

三段論法の欠点の例は次の議論です:

人間は皆、死すべき運命にあります。

私の犬は、死すべき運命にあります。

故に私の犬は、人間です。

偽に一般化すること:語源は、ある事実や統計的や類似から推論したことを、定義として一般化することを指す動詞です。 偽に一般化することの例は:「あなたはこれを間違って理解していました。だからあなたはいつも間違っていることは明白です。」

質問6.もしも私の議論にこれらの欠点がある時、自分で気が付けなかったらどうしましょう。

私の見解: 『バガヴァド-ギーター』1.1.解説でシュリーラ-プラブパーダはこうも書いています:

「シュリー・クリシュナの献身者の助けを借りて入念に細かく探求して『バガヴァッド・ギーター』を読むこと、個人的な動機に基付いた解釈を加えずにありのままに理解しようと努めること、と書いてあります。」

個人的な動機は、自分がいつも正しいと見られたいという望みを含みます。又他の人の信用を損なう望みもです。 もしこれらのうちどちらかの動機を持って語り合いを始めたら、ジャルパやヴィタンダに特徴付けられる欠点を手段として使う傾向が出てきます。 これらの二つの物質的動機を捨てる必要があります。そして「私は全部を知っているわけではない。クリシュナは他の献身者を通して私に何かを啓示してくれているのかもしれない」と認める必要があります。 そうすれば、お互いに敬意を持って聞きくことが容易になり、私達の語り合いから何か精神的な恩恵を得ることが出来るようになります。

オーム-タッ-サット